私には兄がいる。一つ違いの兄は、幼い頃から派手好きで、金遣いの荒さには定評があった。成人してからもその性格は変わることなく、むしろエスカレートする一方だ。
月に一度は必ずと言っていいほど、兄から電話がかかってくる。いつも決まって借金の相談だ。消費者金融やカードローン、果ては闇金まで手を出し、その度に私が尻ぬぐいをしてきた。
「なぜ、わざと私を困らせるようなことをするんだ?」と問いただしても、兄はいつも涼しい顔で誤魔化す。その態度が余計に私の怒りを煽る。正直に言えば、兄のことが憎い。
憎い感情を重点的に瞑想に入ることにした。
よくよく見ていくと不思議なことに、私は兄との縁を完全に切ることができないでいる。なぜなのだろう。深く考えれば考えるほど、複雑な感情が渦巻いているのに気づく。
もし私が兄の面倒を見るのを止めたら、彼は一体どんな破滅的な道を歩むのだろうか。暴力団の関係者と関わってしまうかもしれない。最悪の場合、命を落としかねない。そう考えると、胸が締め付けられる。
先日、近所のおばさんに声をかけられた。「あんなお兄さんで、あなたも大変ねぇ」という言葉に、妙な安堵感を覚えたのを思い出す。そして、その瞬間に気づいてしまった。
私は、周囲から同情や理解を得るために、無意識のうちに「献身的な弟」を演じていたのではないか。兄の問題行動は、私にとって「理解してもらえる苦労話」という、ある種の自己承認の材料になっていたのかもしれない。
この気づきは、私自身への痛烈な問いかけとなった。兄への怒りの裏側には、実は複雑な依存関係が潜んでいたのだ。兄は借金に依存し、私は兄の問題に依存している。まるで歪んだ共依存関係のように。
結局のところ、私にとって兄との関係を断ち切れない理由は、単純な兄弟愛や心配だけではなかった。そこには、自分でも気づかぬうちに作り上げてきた、歪な自己実現の形があったのだ。
自己承認されなかった過去についてさらに深い瞑想にはいることにした。